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2014年1月23日 (木)

赤松貞明中尉の戦後

赤松貞明中尉

撃墜王、赤松貞明中尉。(あかまつ さだあき)

赤松貞明中尉について書かれた情報は、ウィキペディアをはじめとする
インターネット記事はもとより、書物などでも間違いが多いことが
今回、わかった。
 
私は赤松貞明という人物、その人柄に深い魅力を感じ、
どのような戦後を過ごしたのか、以前から深く掘り下げてみたいと
考えていた。
 
そこでいくつかの書物を買い漁るところから始めた。
まず、赤松本人が記した「日本撃墜王」を探し求め読んでみた。
豪快な人柄と相反して緻密な戦術、戦闘機の操縦法などに
驚かされたが、そのほとんどは空戦の話題で終始しており
これはこれで当時を知る上では最高の資料であったが
赤松自身の人柄について深く知ることはできなかった。
 
◆アルコール依存症で友人から見放され孤独と失意の晩年を送る?
次にヘンリー・サカイダ氏の著書『日本海軍航空隊のエース』を求めた。
同書によると求めていた赤松の人柄、戦後について
次のような記述があったので引用する。
 
----------------------
ヘンリー・サカイダ『日本海軍航空隊のエース』より
赤松貞明中尉の項目
 
「とんでもない気分屋で、変人ですぐに暴力を振るった」
坂井三郎が赤松を評した言葉である。
当時、エースという概念を排していた海軍においても
彼だけは撃墜王の中の撃墜王と断言した。
海軍航空隊では最も悪名高いエースで、 その奇行は
語り草となっている。 中略 本土防空戦ではB-29、F6F、P-51を
撃墜し 数々の修羅場を経験したが、落下傘脱出は一度もなく
負傷したことさえなかった。 空襲を受け、酔ったまま女郎屋から
下駄と着物姿のまま飛び出し、 戦闘機に飛び乗ったという逸話も
残されているが赤松をよく知る坂井は
「そんな話を信じてはいけません。そんなことがあるわけないじゃないですか」
と否定する。
 
中略
 
アルコール依存症になった彼にとって
戦後は生きやすい時代ではなかった。戦友たちが資金を出し合い
アメリカ製のパイパー軽飛行機を贈った。
氏は高知県漁業協同組合の 魚群探知の操縦士として雇われたが、
酒代を捻出するため パイパーを手放した。
友人や戦友にも見放され 高知市の小さな喫茶店の主となった彼は
自棄と失意のうちに 昭和55年2月22日肺炎で死去した。
 
引用おわり
--------------
 
◆悲しすぎる結末に納得がいかない
悲し過ぎる結末であった。
これは本当なのだろうか。
赤松が孤独で失意でこの世を去ったと思うと残念でならない。
 
隊内でも年下の士官から「松ちゃん」と呼ばれ親しまれており
人柄を評価する声も多いと聞く。 悲し過ぎる。
くどいようだが納得がいかない。
 
◆赤松の故郷、高知を訪ねることにした
いてもたってもいられなくなった私は 赤松中尉の故郷、
高知県を訪ねることにした。
生前の話が聞きたくて高知の街で遺族や手がかりを
日が暮れるまで を探し回ったがついに探し出すことはできなかった。
 
そこで私は高知新聞社に飛び込み、協力をお願いすることにした。
新聞社で 過去の新聞記事から赤松氏の記事を洗いざらい探してもらった。
親切に対応してくださった高知新聞社の記者の方
本当にありがとうございました。
 
すると、彼の戦後が少しずつ浮かび上がってきた。
「失意と孤独の戦後」と表現したヘンリーサカイダ氏の記述とは
少し違っているようで私は少し安心した。
 
◆赤松の戦後
赤松は戦後も大元気で大空を飛んでいたのである。

昭和28年春、赤松は旧陸海軍のパイロットらと協力して
資金を出し合い、航空機を用いた公益事業全般を名目に
「社団法人西日本軽飛行機協会」を設立、 アメリカ製軽飛行機
パイパー・ペイサーを390万円で購入する。
 
◆南風号で大活躍
「南風号」と名付けられたこの飛行機は香美郡日章村、日章飛行場跡の
一部を利用し運用された。 ただ当時の日章飛行場は野放し状態で
メーン滑走路ほとんど使えず エプロンだけを使用した。
赤松らは暇さえあれば滑走路の草抜き。このときの様子を
「経営者もパイロットもあったもんじゃない。好きじゃないとできん 商売でした」
とコメントしている。
 
だが赤松の操縦する南風号はおおいに活躍。
遭難船発見に四度貢献した。 足摺沖でバルブ船が遭難した折には、
赤松は捜索に飛び 絶望的とも思われたが船体を発見。
必死にデッキにしがみ付いている乗員を視認する。
この出来事を赤松は
「嬉しかったね。空中戦で死に損なったのより嬉しいもんだ」
と目を細めて回想した。
 
昭和30年5月11日
瀬戸内海で173人の犠牲者を出した宇高連絡船「紫雲丸」遭難事故では
転覆船の上空から取材レポートを敢行。 この日は豪雨で飛行許可の
出るような天候ではなかったが、赤松は飛行場の老人保安要員の目を
盗んで、離陸を強行し 現場へ飛んだ。
「雨なんてものじゃなかった水の中を這っているようなものだった」
と語っている。
 
高知に全日空定期便が入らず 海難救助も海上保安部の哨戒機が
飛ばなかった以前、 「南風号」は本県唯一のメッセンジャーとして
欠かせない存在だった。 そのほかにも災害、海難救助や広報、報道、
防犯 高知大学教育協力飛行、一般広告宣伝など
発足二、三年までは好調で仕事は応じきれないほどあった。
 
28年9月15日 高知市営球場で行われた
広島カープ対読売ジャンンツの試合では球場上空から
グラウンドの真ん中に花束を投下するなどの任務もこなしている。
 
◆自衛隊・海上保安庁の設立で民間パトロールの役目を終える
ところが日章飛行場にも全日空が入り、
自衛隊機や海上保安部の哨戒機が 飛ぶようになると
小規模の民間航空はたちまち経営が苦しくなった。
 
昭和34年 経営難によりついに協会は大阪の不動産業者に飛行機ごと
身売された。 赤松だけはパイロットとしてパイパーについて大阪へ移るが
肝心のパイパーは同年九月から大阪の修理工場に入ったまま。赤松は
「飛行機がなければ用事が無い!」と高知へ帰ってしまった。
 
これを最後に赤松のパイロットとしての経歴は途切れる。
そして
 
昭和37年2月
ある事件がきっかけとなり、 西日本軽飛行機協会は設立許可を取り消されて
しまった。 協会某理事が経営悪化に乗じて協会の乗っ取りを計画。 理事らの
変更届け出を偽造、理事長になりすまし パイロット養成学校をつくると称して
応募者から44万円をだまし取ったのをはじめ 神戸、和歌山に支部を
設立するといって一千万円をかき集めていた。 ブームに乗った
パイロット養成のアイデアを手口にしたこの事件で某理事は 逮捕。虎の子の
パイパーは差し押さえられ、赤松も警察から 事情聴収されるはめになった。
念のため書いておくと、もちろん赤松自身は何の罪もない。災難に巻き込ま
れた被害者であり、何より愛する飛行機まで取り上げられてしまった。
 
◆「もう一度空を飛んでみたい」~赤松、晩年の思い
 
昭和50年
晩年の赤松はゼロ戦や雷電、ソロモンの戦い、戦友への思いを秘めながら
高知市街で飲食店を経営していた。そして 生涯最後に取材に対し、
次のように締めくくっている。
 
「戦争はもう懲り懲りですが、もう一度あのゼロ戦で
今度は弾の飛んでこない大空を思う存分飛んでみたいですね」
 
このインタビューから5年後の昭和55年
赤松はこの世を去った。享年70。
最後まで空へ思いを馳せた人生はここに幕を下ろしたのだった。 
  
▼赤松の飛んだ土佐沖の海

桂浜

桂浜

雷電 赤松中尉機
▲赤松中尉搭乗の雷電戦闘機
昭和20年第302海軍航空隊/厚木飛行場 
 
機会があれば、また高知へ取材へ行きたいと考えています。
※記事は加筆・訂正する場合がございます。


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2014年1月22日 (水)

米軍に捕獲されたゼロ戦

ゼロ戦鹵獲機

▲アスリート飛行場に残された第263海軍航空隊(豹)の零戦五二型。

 
サイパン島の激戦は有名ですが

同島にはアスリート飛行場と呼ばれる
帝国海軍屈指の航空拠点がありました。
 
太平洋デルタ地帯最後の攻防(昭和19年<1944>)
 
また、サイパンのほかには、大宮島※(グアム)、ヤップ、パラオな
ど三角地帯にいずれも大規模な滑走路を建設し
航空戦力を配置、太平洋の要となり、米軍と対峙しました。
 
※当時、日本占領時はグアムを大宮島<おおみやじま>と呼びました
 
昭和19年(1944)5月、あ号作戦(マリアナ沖海戦)で
三角地帯の飛行場航空部隊は日本最後の空母機動部隊とともに
遊撃戦を展開し、多くの犠牲を払いました。その多くは若年の搭乗員でありました。
 
サイパン陸上戦で散った搭乗員
在サイパン第261海軍航空隊(虎)の至宝パイロット、東山中尉は、角田司令とともに
陸上戦隊に編入しました。海軍一の度胸と腕を持っていた東山中尉も
その最期は飛行機ではなく、陸上で玉砕したと伝わっています。
 
アスリート飛行場に残されたゼロ戦
ところが、サイパン・アスリート飛行場には
第263海軍航空隊(豹)第261海軍航空隊(虎)
状態の良いゼロ戦が多数残っており、これを
米軍が鹵獲(ろかく)してアメリカ本土に持ち帰っています。
現在、カリフォルニアのプレーンオブフェイムで動態保存されている
ゼロ戦はこのとき持ち帰ったうちの一機です。  
 
パイロット本来の持ち場である空で存分に戦えなかったことは
無念だったでしょう。上陸戦で瞬く間に飛行場を制圧され、
飛行機に近づけなかった可能性があります。
 

ゼロ戦鹵獲機

▲アメリカの軽空母に搭載され本土へ運ばれる第261海軍航空隊と
第263海軍航空隊の零戦五二型。

ゼロ戦鹵獲機

▲尾翼の番号(テールレター)の頭文字が8と刻まれているのが
263空で、61が261空の所属機。

ゼロ戦鹵獲機

ゼロ戦鹵獲機

 
写真について
 
261空と263空の零戦は海軍機には珍しく迷彩色を
採用していたという説もあるが、これは誤りの可能性が高い。

モノクロ写真であれば翼の日の丸は通常黒に近い色で写るが
この写真はだいぶ薄い色に見える。溶剤などで、部分的に
塗装を落とし、日の丸を米軍の星のマークに
描きかえる直前の写真であり、それが迷彩のように見えたことから
間違った説が流れた可能性が高い。
 
敵の飛行機を戦利品として鹵獲した場合は直ちに国籍マークを
塗り替える必要があるうえ、上空から見ればまるで
日本の空母である。ここは太平洋の最前線。
誤認され爆撃でもされないよう、大急ぎで作業したのではないだろうか。
 

 

第263海軍航空隊の零戦五二型(指揮官機)をジオラマで再現してみた。
 
261空のゼロ戦に関しては
日の丸の白フチは現地で目立たぬよう黒く塗りつぶされていたが
263空は白のままだったようである。 
  

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3月にパラオへ行きます

A4

TOP画像を撮影し直し、更新しました。
 
お知らせ
3月に戦跡調査でパラオへ参ります。
もし現地で会う機会がありましたらよろしくお願い致します。